はるか昔、河内と大和の一帯は鳥見(登美)の里と呼ばれ、穏やかな自然と、海や山の幸に恵まれた豊かな土地でした。
この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術はないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに優れていました。また、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で、「長髄の者」と恐れられていました。
さて、神々の住む高天原では、天照大神が、孫の饒速日尊に大和の建国を命じ、『十種の瑞宝(かんだから)』を授けていました。
『十種の瑞宝』は、人々を治め、身や心の病を癒す霊力をそなえた瑞宝です。饒速日尊は『フツノミタマの劔』を持ち、日の御子の証である『天羽々矢』も携えて天磐船に乗り、船団を組んで高天原から船出しました。船団が豊前(大分県)の宇佐につくと、尊は息子の天香山命に『フツノミタマの劔』を授け、船団の半分をあずけます。
そして自らは、瀬戸内海を通って大和に向かいました。こうして饒速日尊の乗る天磐船は、鳥見の里を見渡す哮ヶ峰(生駒山)に着きました。
その頃の鳥見の長、長髄彦は、外敵を全て討ち滅ぼす猛々しい族長でした。しかし饒速日尊の徳の高さに打たれ、尊のもたらした稲作や織物、鉄製の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって饒速日尊に従ったのです。このとき二人の間を取り持ったのが、長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)でした。
こうして鳥見の里を治めるようになった饒速日尊は、水が豊かで稲作に適したこの地に水田を拓き、大きな実りをもたらします。これが近畿地方の稲作文化の初めといわれています。饒速日尊はやがて、登美夜毘売と結婚して可美真手命をもうけ、一層国の発展につくされました。
鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、神武天皇は日向の高千穂から東へ進攻を続けていました。
河内に上陸し、孔舎衙坂(現在の石切霊園のあたり)から大和へ向かう神武天皇の軍勢を見て、長髄彦は「平和で豊かなこの国を奪われてなるものか」と、戦をしかけます。土地に詳しく勇猛な長髄彦の軍勢に皇軍は総崩れとなり、退却を余儀なくさせられます。
哮ヶ峰の麓の高庭白庭の丘に兵をまとめた神武天皇は、かたわらの巨石を高々と蹴り上げて武運を占い、また高天原の神々をこの地に招来して祈りを捧げ、敵味方なく戦死者の霊を祀りました。
神武天皇は、「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りであった」と考え、熊野から大和へと、日を背にして入ることにしました。ところが、熊野の女王、丹敷戸畔の軍から毒矢が放たれ、皇軍は一人残らず気を失い全滅の危機にさらされます。そこへ馳せ参じたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命と名を変えた天香山命でした。高倉下命がフツノミタマの劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れ伏していた皇軍も皆生気を取り戻しました。こうして再び、大和への行軍がはじまります。
またも現れた皇軍に驚き、兵を集めた長髄彦は、「我らの主君こそ日の御子である。神武は偽り者だ」と疑います。この頃、既に饒速日尊は亡くなり、鳥見の長となっていたのは可美真手命でした。可美真手命は「天羽々矢」と歩靱を、日の御子である証として神武天皇に差し出しました。すると神武天皇からも同じものが示されたので、ようやく互いに天照大神の子孫であることが明らかになったのです。そこで、可美真手命は長髄彦に天皇への帰順をさとし、自らも一族を率いて天皇に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領のすべてを捧げました。こうして大和の統一が成し遂げられたのです。その後、可美真手命には忠誠の象徴としてフツノミタマの劔と、河内の美田が改めて授けられ、その功績は永く讃えられることとなります。以来、一族は物部氏として天皇の側で忠誠に励んだのです。神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。これが石切劔箭神社の発祥と伝えられております。